
二川由夫の世界建築日記 ~6月のロンドン~
GAシリーズの編集長を務める二川由夫氏が特別寄稿。
最新の建築トレンドを、欧州からお送りします。
また、長年の友人ザハへの追悼文からは
われわれの知りえない一面を垣間見ることができ、
急逝した彼女をますます悼まずにはいられません。
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ケンジントン・ガーデンに建つ夏のパヴィリオン= The Unzipped Wall
雨がちな6月のロンドン。
この時期はサーペンタイン・ギャラリーのサマーパヴィリオンのオープニングがあるため,この10数年,ほぼ毎年来ている。
サーペンタイン・ギャラリーは建築家を招いて夏限定のパヴィリオンをハイド・パークのケンジントン・ガーデンに作っている。
今年はデンマークのビヤルケ・インゲルス(BIG)の設計。現代建築の牽引者=レム・コールハースが主催するOMA事務所出身のビヤルケがここに披露したのは,方形断面のグラスファイバー筒を積み上げた「レゴ」的な造形。建築/デザイン関係者以外にも親しみのある解りやすい表現はこの企画にとても似合っている。
元発電所の制御棟跡に建てられたテート・モダンの新館=Switch House
今回は現代美術の殿堂=テート・モダンの新館もこの時期にオープンした。
設計は本館の増改築と同じスイスのヘルツォーグ・ド・ムーロン。
テムズ川に面して堂々たる,かつての発電所の背後に建てられた新館は,形態操作されてその存在を主張するタワー建築であるが,その表面は本館に準じたレンガで覆われる。しかしそのレンガも細かな開口が取られ,光を透過する面になっていて,彼ららしい建築的な新しさ,彼ら的な「ひねり」が与えられている。内部空間は各ギャラリーをつなぐ階段や廊下には様々な意匠/意図が見えて面白いのだが,各ギャラリーはみなホワイトキューブのキュレーターが使いやすいタイプに落ち着いている。昨今の美術館は皆,この傾向。地下の,かつて燃料のタンクであった丸い平面のギャラリーはとても良い空間であった。
30年来の友人、ザハ・ハディドのオフィス
そして,ロンドン滞在の最後はザハ・ハディド事務所へ。
彼女が今年急逝して以後,初めて訪れた事務所は,以前と変わらない活気に満ち,今や400人超はいるだろうか,スタッフは前に向かって進んでいる模様。
彼女が切り開いた地平は未来へ永遠と続いている。
※以下はGA JAPAN 140に書いた彼女への追悼文
例年より早い桜が満開の東京にザハの訃報が届く。
ピンク色は彼女の好きな色であった。自邸のダイニングのパントン・チェアは鮮やかなピンク色であったし,随分昔,彼女からバケーションにハワイのピンク色のホテル,ロイヤル・ハワイアン・ホテルに行くのだということを聞いたことを思い出した。彼女はとても女性らしいチャーミングな面を持っていたが,旧態然とした男世界の建築界を生き抜くためにそれを隠すかのように強い鎧を着ていた。彼女の強い面ばかりが世の中に知れ渡っていた。鋭く的確な判断力はきめ細やかな感性に裏打ちされていたのだろう。
ロンドンのAAスクールの黄金期,その飛び抜けた才能をコールハスに見出され,ロシア構成主義から着想された新しい建築,その概念を表現する素晴らしいドローイングは最初,「フライング・カーペット」などと揶揄されたが,「アンビルドの女王」は次第にモノにしていくその実作群によって,世界を牽引する建築家の一人であることを証明し続けた。ザハの仕事は,20世紀末から21世紀へ,建築全般の事情を未来に向かわせる原動力のひとつになったことは間違いない。その複雑で未知のデザイン・クオリティは建築が社会に対して依然として力を持ち得ることを雄弁に証明し,それを実現させるためのコンピューテーションを始めとする設計や建設の技術は後に続く建築家達に多大なノウハウを与えてきた。
ザハの父親は革命以前のイラクの高名な政治家であり,裕福で知性的な家族に囲まれた幼少期を過ごしたに違い無い。その後革命によって追われた祖国から英国に移り,教育を受け,国籍を得て,英国人の頂点と言えるデイムの称号を女王陛下から授かった彼女は,英国/ヨーロッパの高いアカデミズムを身に付けたと同時に,故郷イラク,イスラム世界の気高い美意識/感性の両方を持つ真の「世界人」であった。民族,文化的な呪縛の無い,インターナショナルに俯瞰的な視点を持って優れた建築作品を世界中,異なる文化背景の各地に残し,そこに歴史を築いてきた。
私は建築ジャーナリズムの世界に入った80年代末から彼女の仕事をずっと見てきたが,その度々にザハの人柄に触れてきた。嫌がる彼女をなだめながら多くの長いインタビューもしたし,後に彼女の実作の撮影もしてきた。彼女と世界各地で偶然に遭えばいつも建築からゴシップまで,情報交換をした。彼女はとてもストレートな人であった。イエス/ノーのハッキリとした人で,嫌い,嫌なことはハッキリ言った。反面,買い物で迷うような可愛らしい面を併せ持っていた。
ザハはユーモアに富んだ人でもあった。一時期,黒いロンドンタクシーの車両を個人所有して足にしていたし,同時に小さなスマートも持っていて,これをアラブ人の老ショーファーに運転させ,横に乗って皆を驚かしたこともあった。人を批判する時も面白い例えを交えて厳しい視点を少しのユーモアで柔らかくした。
ザハは日本と関わりの深い外国人建築家の一人だった。実質的なデビュー作である香港ピークのコンペティションで磯崎新さんがその才能を見出し,後に大阪花博のフォーリーを作らせた。二川幸夫も彼女に大層惚れ込んで異例の実作の無い作品集を出版し,展覧会を開催した。バブル期の日本は彼女に札幌でムーンスーン・レストランというインテリアではあるものの最初の実作を完成させ,富ヶ谷と麻布十番に実現はしなかったが意欲的なプロジェクトを与えた。そういうこともあってか,新国立競技場の設計者に選ばれた時,日本での大仕事にたいへんに喜んでいたし,ダメになった時はメールのやり取りをしたが,とても残念がっていた。
ザハはスケールを横断する類稀なデザイナーであった。ジュエリーから家具,住宅からスタジアムまで自在に横断してオリジナリティを発揮した。建築と家具の成り立ちがまったく違うように,彼女はそれぞれのスケールの持つべき意味に準じ,優れた「プロダクト」を作り続けた。それらは単なる造形ではなく,理論やコンセプトのしっかりしたもので,新しい可能性の提案であり続けた。
マイアミで彼女の最後に何が起きたのかは今の時点では判らない。少なくとも後20年ぐらいはどんどん仕事をして欲しかった。その湧き出る才能による仕事をジャーナリストとして,そして友人として見届けたかった。
桜は散ってしまった。Rest in peace.
なお、取材した建物は近々にGA DOCUMENT、GA JAPAN、GA HOUSESで紹介予定です。
ZAHA HADIDに関するGAの刊行物
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