ハードボイルドにオレンジ・シフォン

今日は日曜日だというのに、あいにくと、休日には似つかわしくない朝からの雨ときた。

こんな日は、ベッドから起き上がりカーテンを開けることすら面倒になるが
昨夜は週末だというのに深酒をすることもなく、早くに眠りについて心地よい夢に抱かれてものだから
妙に目覚めが爽やかで、朝から何かをしたい気分だ。

世間に背を向けて生きてきたわけではないが、今更、誰かとつるむような歳でもないし
何かと、一人の方がいいのさ。

自分で作ったケーキを独り占めできるからな・・・。

男は、右の頬に笑みを浮かべて、キッチンへと向かった。

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「ぎぃぃぃぃぃ・・・」

この冷蔵庫も随分とガタがきてるが、氷を作るほど冷えてくれる必要もないので、食品庫としては丁度いいのだ。

どうせ、バーボンはストレートでしか飲まないからな。

男は再び、右の頬に笑みを浮かべ、白いボウルに玉子を割り入れた。



玉子は4個。
卵白と卵黄、それぞれを別のボウルに、ハードボイルドな男には似つかわしくないほど優しく分け入れた。


卵白ってのは、想像以上にデリケートなもんで、一滴の水や油が混ざるだけでもメレンゲになりにくいのさ。

だから、ボウルは、使う前に丹念に洗い、キッチンペーパーで水気を完全に拭き取る必要があるんだ。

男は、ベガスの奇術師のように、優雅でありながらも素早く準備を終える。

それに引き替え卵黄ってぇのは、割と雑に扱っても問題ないが、卵白と卵黄を分けるときだけは慎重にならないといけないのさ。

玉子の殻が少しでも卵黄に触れようものなら、この先の戦いは、1337年から1453年の116年間続いたイングランド王国とフランス王国の百年戦争のようなことになっちまうからな。

まるで見てきたかのように、口ひげを震わせて笑った。

男は、卵白の入ったボウルに手際よく、グラニュー糖を35グラム放り込むと
使い慣れた道具入れからハンドミキサーを取り出し、角が立つほど丹念に泡立てて、上質なメレンゲにしてから、ボウルを冷蔵庫に入れ
続いて、こちらも手際よく、卵黄の入ったボウルにグラニュー糖を30グラム、サラダオイル30㏄を入れ、メレンゲを立てたまま洗わずに混ぜ始めた。


男はいつしか、「As Time Goes By」を口ずさんでいた。

いつになく機嫌のいい朝らしい。



卵黄ってのは、卵白ほどデリケートじゃなく、水でも油でも溶けると思っているご婦人方が多いが、確かに、チョコレートでもマヨネーズでも良く混ざっている。

しかし、この段階でよく混ぜ合わせないと分離しちまうのさ。

「もうこれぐらいでいいかな?」と思ってから、それまでの2倍は混ぜた方がいい。
さもなきゃ、間抜けな強盗団のように、仕事を終えてすぐに仲間割れしかねないからな。

男は、ハンドミキサーが熱を持つのも忘れ、卵黄がクリーム状になり、マヨネーズのような色になるまで混ぜ続けた。

何日か前に女が訪ねてきた。

あの日も丁度、朝からこんな雨が降り続いていた。

女の手には、ワインカラーの傘と、途中のバザールで買ったと思われるオレンジが入った紙袋が抱えられていた。


「ジョニーが来たら、2時間待ってたと伝えて・・・」

女は、手土産だと言って、オレンジの入った紙袋を置いて踵を返した。



あの女は誰なんだろう?
ジョニーって、誰のことなんだろう?

男は、そのどちらもに思い当たらなかった。


訪ねる家を間違えたんだろう。
まったく、そそっかしい女だ・・・。



男は、女が置いて行ったオレンジの皮を3個分剥き
10分ほど煮ては水を替え・・・を3度ほど繰り返し
えぐ味が無くなった頃合でグラニュー糖を入れて煮立て
粗熱が取れたところで密閉瓶にシロップごと移し入れて保存しておいた。


男は、保存しておいたシロップ付けのオレンジピールを数枚取り出し、良く研ぎあげたナイフで、器用に細かく切り刻んだ。


きっと、怪盗ゾロのワンシーンでも思い出したのだろう。
男は、こびりついたシロップを拭き上げたナイフで
素早く空を切り刻んでからストッカーに戻すと
右の頬に笑みを浮かべた。

卵黄のミキシングさえ完璧なら、もう仕事は終わったも同然だ。

男は、卵黄のボウルに、刻んだオレンジピールを入れ軽く混ぜ合わせると、70グラムの小麦粉を篩いながら入れ
粉気が無くなる程度にさっくりと混ぜ合わせた。


さて、仕上げに取り掛かるか。

男は、意を決したように、使い慣れたゴムべらを手にすると
冷蔵庫に入れておいた卵白のメレンゲが入ったボウルを取り出し、その中の1/3ほどを、ゴムべらを使って、卵黄のボウルに入れた。


メレンゲってのは、産まれ立ての赤ん坊の肌のようなものだからな。
少しでも乱暴に扱うと、命を奪いかねないのさ。

卵黄はメレンゲよりも固いから、そのままだと混ざりにくい。
だから、先に、少しのメレンゲに犠牲になってもらい、卵黄を柔らかくして、メレンゲと混ざりやすくするのさ。

この犠牲のメレンゲは、冷戦時代に消えて行った多くのスパイたちのようなもんさ。

男は、ふと手を止めて、窓を伝う雨粒に目をやった。

ひょっとすると、その中に「ジョニー」という男もいたのかもしれないな。

男は、雨粒の、その向こうの遠くを見つめた。

卵黄が適度に柔らかくなったら、メレンゲのボウルに移し入れ、ムラが無くなるように、しかし、メレンゲを潰してしまわないように、ゴムべらで切るように、さっくりと混ぜ合わせるのさ。

その間に、オーブンは170度で予熱しておくのが常識ってもんだ。

さもないと、せっかくのメレンゲが潰れて、この戦いに敗れかねないからな。


男は、メレンゲと卵黄をさっくり混ぜ合わせたあと、シフォンの焼き型へと流し込んだ。

シフォンってのはとても厄介者なのさ。

焼きあがったそばから縮んでいきやがる。

他のケーキ生地のように、クッキングシートでも使おうものなら、焼き上がりの半分にまでなってしまうのさ。
だから、焼き型にはシートを引かず、直接焼き型に流し込み、焼き型にこびりつかせるのさ。

こうすることで、引っ張り合って縮んでしまう力を抑えるのさ。
そして更に、ひっくり返して粗熱を取り、冷ますことで、シフォンが窪んでしまうのを抑制するんだ。

ハメットでも、チャンドラーでも、ガードナーでもないし、ましてや、パパ・ヘミングウェーでもないので、パイプを咥えてリクライニングチェアーで揺られることもない。

自分で焙煎したコロンビア・スプレモのブラックにするか、ロイヤルコペンハーゲンのアルグレイに、庭に生えたミントの新芽を入れるか・・・
今はただ、こんな些細な悩みが楽しいのさ。


男は、雨に濡れた庭を窓から眺め、ミントの伸び具合を確かめると
右の頬に笑みを浮かべた。


焼き型に生地を流し込んだら、軽く「トントン」と型ごと作業台に叩き付けるのを忘れちゃいけない。

他人から見たら「まじない」に見えるかもしれないが、いまさら迷信に惑わされる歳でもあるまい。

これは、生地の中に含まれた大きすぎる気泡を抜くためと、生地が型の中で均一な密度にするためだが、まぁ、旨く焼ける「まじない」だと思って行ってもいいだろう。

何事も、思い願うことは大切なことだからな。


男の鼻歌は、いつしか「Cab Calloway」の 「Minnie the Moocher」へと変わっていた。


オーブンが温まったら、生地の詰まった焼き型を放り込み、170度で30分焼くだけだ。

男は、「Minnie the Moocher」に合わせてステップを踏みつつ、オーブンのドアを閉めた。

シフォンが焼きあがる頃には雨も降り飽きたようで、僅かな雲間から差し込む陽射しは、ガラス窓に残る雨粒をプリズムに変え、照らしだしたテーブルウェアに命を与えた。

男は、水滴をたたえたミントの新芽を数本、庭から摘んで
僅かなダージリンと共にティーポットに入れてお湯を注いだ。

ハードボイルドなオレンジ・シフォンには、ダージリン・ミント・ティーが良く似合うのさ。


男の鼻歌は「Gene Kelly」の「Singin' in the Rain」に変わっていた。


あの女は誰なんだろう?
ジョニーって、誰なんだろう?

映画の雨の中で、歌いながら踊っていた男なのかもしれないな・・・

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