世の中のノイズが建築を面白くする。建築家 松島潤平氏インタビュー

~建築家・松島潤平インタビュー連載Part1~独創的な思考から生まれる唯一無二なデザインが脚光を浴びる注目の建築家・松島潤平氏。そんな松島氏の生い立ちや建築との出会い、そして作品に対する考え方までを短期連載としてお届けします。ここで紹介する松島氏の生の声を聴けば、きっと建築に対する世界観が一気に広がるのではないでしょうか。第1弾の今回は松島氏の幼少時代の記憶から建築との出会い、そして事務所を設立するまでのエピソードを紹介します。

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松島潤平
1979年 長野県生まれ。2003年、東京工業大学工学部建築学科を卒業し2005年東京工業大学大学院修士課程修了。2005年から2011年にかけては有名建築家・隈研吾氏率いる隈研吾建築都市設計事務所に勤務。そして2011年に独立し「松島潤平建築設計事務所」を設立した。主な作品は QILIN(住宅・2013年)、MORPHO(オフィス・2013年)CUTTLEBONE(会場構成・2013年)、LE MISTRAL(店舗・2014年)、育良保育園(保育園・2014年)TEXT(住宅・2015年)など。2010年にはTEAM ROUNDABOUTで現代アート専門メディア『ARTIT』とコラボし、WEBマガジン『ART AND ARCHITECTURE REVIEW』を創刊、2014年まで同サイト内の『LITHIUM_BLOG』を連載するなど、アートやカルチャーにも精通する今注目の建築家だ。

昔住んでいた「支離滅裂な家」の記憶

子供の頃、僕は発明家になりたかったんですよ。知的な職業というイメージと、人を驚かすという芸人的な側面と両方あるじゃないですか。頭の良さそうな職業に憧れているのに学者とは言わず、発明家と言っていたのは、「プレゼンテーションしたい」という欲望があったからだと思います。ひとり黙々とやり続けるよりも、作り上げた成果や魅力を人に伝えたいという欲求が、今思うと将来の夢を「発明家」と言わせていたんじゃないかと考えてます。目立ちたがり屋だったんでしょうね(笑)。その頃は偉人の伝説のような学習漫画を片っ端から読んでいましたし、良く言えば「歴史に参加したい」ってことだったんですね。
僕の父は自営業で設計士をしてて、祖父は新聞記者、更にさかのぼるとひいおじいちゃんは地元の謎のフィクサーみたいな人で(笑)。その人が免許もないのに設計したような家がありまして。ひいじいちゃんが設計したその古い家と、親父が設計した現代住宅がドッキングした家に住んでいたんです。「最小限住居」みたいなミニマムなボックス住宅と、昭和の間取り的な家屋が合体した、お互いのことを何も考えていないような支離滅裂な家でした(笑)。

松島氏が幼少時代を過ごした実家。

古い方の2階にばあちゃんとひいばあちゃんが住んでいて、同じ家の中のたった数mの距離なのに、たまにお出かけするように会いに行くんです。すると、「あれ?こんな家だったんだ」みたいな感覚に襲われる。トイレが両方にあったんですけど、古い方のトイレがけっこう暗くて湿気ってぽくて怖かったですね。誰かか片方のトイレを使ってると暗いほうに行かなきゃいけないんですが、なんか出そうなトイレだったんですよ。別段広いわけじゃないんですけど、自分の家なのに、怖くていけない場所とか行ったことない場所とかがあるなんてもはや珍しいですよね。

極めつけは、この家、僕が高校生のときに壊されたんですけど、壊してから古い方の階段の裏に部屋があったっていうことをはじめて知ったんです。10年以上住んでいたのに知らない場所があったっていうのはショックでしたね。物理的な広さとは違う、別の宇宙みたいな得体の知れない奥行きを感じました。そうした経験がいまの自分にとって魅力的な記憶として残っています。だから、全体性を把握できないというか、物理的に作られたスペース以上の広がりとか奥行きが感じられるフィクションの世界に一歩入るような設計に、今も興味があるわけです。僕はいまだに元の家の正確な間取りが描けないかもしれないですね。そのぐらいどこになにがあったか明瞭じゃないんですよ。

その家のなかに親父の事務所というかアトリエがあって、彼が描いてる図面の細かい線とか、青焼き図面に対して、素朴に「綺麗だな」と思っていましたし、作る模型にも不思議な魅力を感じていました。ペンとか製図道具といった設計にまつわる文化全体になんとなくですけど、ただならぬ興味を持っていました。まぁ、受験のときに「建築に進むぞ」という感じだったわけではありませんけど、でも絵は得意で芸術的な方面も好きだったし、理数的なものも興味がありました。そうしたことの総合領域として建築学を選べば、将来振れ幅が大きそうだと思って建築に進みました。そこまで積極的ではなく、今思うと他にやる事がなかったからという程度の心持ちでしたね(笑)。

当時タブーだった9.11を題材にした作品

いざ建築学科に入ると、続々と大学の課題が降ってくるわけなんですけど、降ってきたらきたで負けたくないんです。取り組み続けたらもはや引き戻れなくなっちゃった。でも、卒業時には想像以上に面白い分野だと思うことができました。結構、学生時代長いんで途中で建築を嫌いになったりするんですよ。卒業制作の頃とかも建築と距離を取りたくてしょうがなくて、現代美術に目を向けたりして。でも修士を出るときには、芸術の一分野としてではなく、単体として非常に強い分野だと心から思えたので、ちゃんと生涯取り組まなければと考えました。

修士制作は9.11がテーマになっています。今は3.11が卒業制作のテーマとしてよく選ばれていますが、3.11は天災ですけど、9.11は悪意のある人災なので、大きなタブー感があって2001年からそれまでの4年間、テーマとして扱われているものを見たことがありませんでした。もういい加減誰か真正面から取り組まなきゃいけないと思って、自分の学生最後の製作のテーマにしたんです。

9.11のレポートを読むと、飛行機が突っ込んだ階の上の人ってだれも生き残ってないんですよね。最初のインパクトで死ぬのは避けようがないとしても、ただ逃げる手段がないために死ぬしかないというのはあまりにも辛すぎる。デザインによって、その最悪な状況を作らせない事ができるはずだと考えて、どんな災害やテロが起きても「絶対に逃げ道がある」っていう建物を作ったんです。足が何本もあって、どこがやられても、全体は壊れず、逃げ道がいくらでもあるような。ひとつのマッチョなビルを作っても、結局それが耐えられる以上のインパクトが与えられたら崩れるわけです。こう円陣を組んだような形にすれば、インパクトがあって一人コケても全体は崩れないし、逃げ道もたくさん残っている。だから「強くて固くて傷がつかない」ではなくて、「どこかは壊れるけど全体は絶対に壊れない」というコンセプトの超高層ビルをつくりました。

この修士製作はポートフォリオじゃなくて、タブロイド版の新聞形式でプレゼンテーションしました。ポートフォリオは一、二冊作って大切な相手に恭しく見せるものなんですけど、これは2000部刷ったんですよ。いまだに余っちゃって困ってるんですけど(笑)。2000部もあると全然知らない人とかも見てたりするんです。それが結構おもしろくて。自分のことは知らないけど作品はみたことあるよってことも起きる。

有名建築家・隈研吾氏との出会い

修士を出たら隈研吾建築都市設計事務所に入る事になりました。アパートの三部屋隣に住んでいた先輩が隈事務所に勤めていて、その人に誘われたのがきっかけですね。事務所には当時20人ぐらい人がいて、過渡期というか、これから確実に拡大していくだろうなという勢いが感じられて、非常に魅力的でした。

建築家さんの事務所ってスタッフがその建築家のファンだったりするとある意味危険だと思うんですよ。完全に心酔してるスタッフしかいないと、ただボスとシンクロするだけで、対話から生まれる発明的なプロセスはなくなってしまうので。隈事務所はスタッフの皆さんがすごく隈さんをリスペクトしながらもちゃんと距離を取れていて、客観的に見れてたんですね。いちスタッフでもボスを冷静に批評できていた。その距離感がすごくよかったんですよね。だから、その分、ボスのアイデアが強すぎなくて、ちゃんとスタッフが対等にやれているんです。隈さんもそういう化学反応を歓迎する方なので、個人個人がその人なりのパフォーマンスを発揮できていました。

僕が入ったときは同期が一気に6人入って、30人ぐらいになって、その後6年半いたんですけど、出るときは130人ぐらいになってました。それぐらいの規模の所って、半分以上が事務とか総務なんですよ。でも、隈事務所は130人中、120人ぐらいが全員デザイナーなんです。100人超えても90%がデザイナーの組織ってたぶん世界中にほとんどないと思います。もちろんチームはあるんですけど、特にヒエラルキーもなくて。海外のそのぐらいの規模になると、あんまりボスと話せない立場の人も出てくるんですけど、隈事務所は隈さんから直接電話がバンバンかかってくるんです。サボってないか確認してるのかもしれないですけど(笑)。緊張感あるし、それはそれでスタッフにとっては嬉しいことじゃないですか。だから、やりがいや責任感が自動的に生まれてくる。色んな事務所を渡り歩いた人に聞くと、他の事務所に比べてもものすごくポジティブな雰囲気があると言ってましたね。

隈研吾建築都市設計事務所に勤務していた頃の松島さん(写真中央右最前列)。写真中央が隈研吾氏。

隈さんはすごいリベラルな方で、何かの命題に対して「これが絶対正しい」っていう解答をあんまり持ってないんですよ。社会が変わればあるべき建築も変わりうるという態度。ダーウィンの言った「環境に応じて変化できるやつが一番強い」という言葉を実践しているようでした。自分の哲学みたいなものが社会に裏切られるのを楽しんでいるかのような印象、そこは非常に性格として通じるものがありました。

隈さんは「面白いことを最大化していくことで建築を作っていく」というか、例えば、ちょっと違和感があったときは、その違和感が実は面白いんじゃないかと思ってそこを肥大化させるように作ってくんですね。でもそういう悪ノリをオーバードライブしていくプロセスもある一方で、ものすごくドライに細かくブレーキを踏んだりする。原理主義に陥らないというか。例えば、『馬頭町広重美術館』という木のルーバーで覆った建築があるんですけど、通常感覚だと木の建築なので木造でやりきりたいとか思うわけですよ。でも、隈さんは木のルーバーを一番きれいに見せるには鉄骨でやるべきでしょっていう考えで。だから躯体は全部鉄骨で実際見るとめちゃくちゃメカニカルな建築なんですよね。でも、エレベーションはすごく丹精。やっぱり悪ノリの方向を間違えないっていうのかな、根本的に大事なことは何かってことを必ず分裂症気味に見てるっていう感じがおもしろくて。

こういう分裂した態度の事をよく建築では「べタ」と「メタ」っていう言い方をします。モノに対して感情的に思い入れながら接する態度が「ベタ」で、高次元に、俯瞰視点で大きいスケールで眺める態度が「メタ」ですね。いかに同時にその二つの目線を分裂症気味に保ち続けるかが建築設計においてはすごく大事だと思います。モノやヒトに対する私的な思い入れを持つことと、図面上でアノニマス(匿名的)な人間になってメタ視点で見ること、どちらも片手落ちでは絶対出来ない職業だと考えています。

余計なものがときに時代を作る

結構忙しかったんで、当時は目の前の仕事以外のことはあんまり考えられていなかったけど、それでも余計なこと考えていたほうですね。そういう環境で思考停止しちゃうのはもったいない。普段の仕事の中でも、広い文化のなかで、また、建築の長い歴史の中で今作ってるものはどういうポジションなんだろうっていうメタ視線も持つべきだと思うんですね。それがないと、独立してから呆然としてしまう。とにかくあらゆるフェイズで二つの分裂した眼差しっていうのは大事だと思います。集中力散漫なのはむしろ良いと思う所もあって、雑音がいっぱい入ったほうが今の時代絶対面白い建築ができると思うんですよ。

ノイズをシャットアウトしちゃうと、その時点の情報だけになり、想像の範疇のものしかできないんですが、そこに雑音がいっぱい入れば、余計な手を加えて謎のものができたりするんですよね。そういうものがときに時代を作ったりする。日本人の働き方はネットサーフィンとかしていて間延びしているから効率が悪いって散々外国人スタッフに言われましたけど、脇見やよそ見をしているから生まれているものもたくさんあるんじゃないかなと思っています。だから今自分のスタッフには、暇があってもなくてもどんどんネットサーフィンしろと言ってますね。

取材・編集:小久保直宣(LIMIA編集部)

●取材協力
松島潤平建築設計事務所 / JP architects
東京都港区南麻布2-9-20
E-mail: office@jparchitects.jp
TEL:03-6721-9284

http://jparchitects.jp


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